円周率が3.05より大きいことを証明せよ.
2003年度の東京大学入試問題で出題された
円周率が3.05より大きいことを証明せよ.
という問題を「ドラゴン桜」が取り上げている.
この問題が大学入試における良問かどうかはともかくとして,この問題が出されたということはこの年の受験業界でも比較的話題になったと思われる.
さて,件のマンガの当該部分には他にも沢山つっこみどころがあるのだが,ここではこの問題について直接論評している部分だけを取り上げる.
問題に込められた出題者のメッセージを受け取ることが重要だという文脈の中で取り上げられたのがこの問題であり,作中では柳という数学の教師が次のように続ける.
ここで注目すべきは,
この問題は円の本質を理解している者には簡単に解ける.
という言明だ.この言明に妥当性があるかがさしあたっての今日のお題というわけである.
さて,僕がこの巻を買ってしまった最大の理由は,東大合格者の答案見せますというキャッチコピーのせいである.事実,柳という教師は,東大に合格した生徒と不合格だった生徒の答案を引き合いに出す.次の2枚の答案を見比べよというわけだ.右が合格者.左が不合格者である.
ここで柳という教師は,この2枚の答案に見られる差異を指摘するよう生徒たちに問いかける.もしこの記事を読んでおられる奇特な方がいらっしゃるなら,ぜひ考えてみていただきたい.この2枚の答案に見られる差異とは何であろうか,と.
そのための補助線として,ひとつ指摘しておくことがある.
このマンガのこの話の最も酷い点は,「円の本質を理解している者には,簡単に解ける」などと断言して見せ,「数学で大切なのは本質の理解だ」とか,「円の本質を教える授業をしているのかどうかを議論すべきだ」などと言ってみせるだけで,「円の本質とは何か」ということについて一切の言明をしていないということである.
もちろん「円の本質とは何か」という問いに対する答は様々なものがありうるだろう.しかし本問に必要となる「円の本質」が何かは明確である.それは,
円とは正多角形の極限形,つまり正多角形を用いていくらでも良い近似が作れる.
ということに他ならない.この意味からいくと,次の洞察はどちらも円の本質を見事に捉えている.
- 円周>内接正n角形の周の長さ
- 円の面積>内接正n角形の面積
そしてnを大きくしていけばその差は限りなく小さくなっていく.
「円の本質を捉える」という意味において,上記の2枚の答案に優劣はない.どちらも円の本質を見抜いている.しかし決定的な差異は,左の答案が面積に,右の答案が円周の長さに着目したということだ.もちろんどちらも「円の本質」のひとつの側面ではある.しかし,本問を解くという視点から見ると,実はこの違いは小さくはない.
と,補助線を引いた上で,柳という教師の説明に戻ろう.彼は言う.合格者の答案(右)は,円内に正12角形という具体的なものを想定することから始め,不合格者の答案(左)は正n角形という抽象的なものを想定している.抽象的なものは推測する足がかりがないために迷走するのだと結論する.つまり,この合否を分けたのは,「具体的なものから考察を始める」という態度/手法の差にあるのだと.
もちろんこの答案のことを別にして一般論として「具体的なものから考察を始める」という態度/手法は重要である.簡単に確かめられる具体的な計算もせずに白紙の答案用紙を眺めながらうんうん唸っている人も多いかもしれない.簡単に確かめられる例を計算しておけば,自分の計算が間違いであることがすぐに検算できるのに,一顧だにしない人も多いかもしれない.そういう人たちにむかって,「具体的なものから思考を始めよ」と説くのはもちろん大切な教師の役割だろう.
しかし,この2枚の答案を比較しながら述べるなら,このコメントは,少なくとも二重の意味で言いがかりである.
ひとつは,すでに前に述べていた「円の本質を理解している者には簡単に解ける」という言明から外れているということ.どちらの答案も,円の本質は同程度には捉えきっている.問題が解けたか解けなかったかを分けたのは,「円の本質を理解していたか」にはない.この点をごまかしている.
そしてもうひとつ.最初に正n角形から始めたか,正12角形から始めたかが,この問題の出来を分けたと考えるのは間違っている.例えば,左の答案でn=12の場合を考えてみる.最初に正12角形を想定することから始めると,
という不等式が現れる.右辺はだ.つまり,正12角形という具体的なものから出発しても左の答案の方法では,求めたい不等式は得られないのである.
実は左の答案は最後の=のところでnをと書き間違えている.そのせいで意味不明な式が出てきてしまって思考停止したのかもしれないが,僕はマンガの作者の書き間違えではないかという疑いも捨てきれない.だがいずれにしても最初に具体的なものから出発したか否かが,この問題の出来不出来を決定したのではない.合否を分けたのは
となる具体的なnを求めることが出来なかったという点に尽きる.それは最初に面積に着目したか周長に着目したかの違いなのだ.面積だと正12角形では不足であり,周長なら正12角形で十分だった.(実は正8角形でも十分である.)
とすると,
を求める必要がある.それは
とみて加法定理をつかって計算すれば良く,その場合
という不等式が得られる.右辺が3.06より大きいことが数値計算で確認できる.
念のため確認しておく.
(注意:
の値の話をしているので,本来は弧度法で
を持ち出すのは良くない.度数法で記述するべきだろう.)
半径1の円に内接する正n角形の面積はより小さい.円周の長さは
より小さい.このことから次の2つの不等式が得られる.
- 面積:
- 周長:
ここで,
と変形すれば,のとき,確かに
に収束する.他方,周長の方は分母と分子に
をかけて考えると
と変形できる.で分母は
に収束し,分子は
に収束するから,全体として確かに
に収束する.
このことは,正n角形の極限形としての円の姿を式で捉えていると考えられる.さて,両者の比をとってみると,
となる.が大きくなると確かにこれは
に収束するわけだが,
の部分は単調に増加しながら
に近づいていくことになる.つまり,
となっている.このことからわかることは,周長の方が面積よりもの良い近似を与えているということだ.
それゆえに,周長なら
で得られた不等式が面積なら
まで考えなくてはならなくなったのである.
結論はこういうことだと思う.
この2枚の答案は,片方は周長,もう片方は面積という点に着目して,円が正n角形の極限形であるという本質を捉えている.しかし周長に着目したほうは完答したにもかかわらず,面積に着目したほうは完答できなかった.それを分けたものについて,次の可能性が考えられる.
- 計算の途中で
を
と書き間違えた.(もし答案が忠実に再現されているのだとしたら,間違いなく最大の原因はこれである.)
- 周長のほうが面積よりも良い近似を与えているということには気が付かなかった.(これはそんなに自明なことではないと思う.実際に計算して見なければわからないことなのではないか.)
となる具体的な
を求められなかった.(もしかすると
を計算する手間を惜しんだのかもしれない.)
2枚の差を分けたのは,どちらが円の本質を理解していたかではない.つまり「円の本質を理解している者には簡単に解ける」という言明は偽であることが証明されている.
2枚の差を分けたのは,具体的なものから考察をはじめたか否かにあるとは必ずしも言えない.むしろ周長に着目してで上手く行った事がラッキーだったのだ.右の答案を書いた生徒が「どうせ12くらいで大丈夫なんでしょ」と安直に考えた可能性も否定できない.左の答案は,具体的な考察をするまでもなく
を
を用いて評価する不等式を既に得ているのである.左の答案を書いた生徒は,あとで
に具体的な値をあてはめて数値計算しようと思って
を用いて計算していたのだろう.が,
の転記ミスを犯した.あるいは,
が計算できなかったのかもしれない.
くらいを代入してみてだめだと気が付いて匙を投げたのかもしれない.
一般論として,問題を解き始める場合,何も思いつかないなら「具体的な考察から始めよ」というのは間違っていないと思うし,強調されてしかるべき教訓だと思う.しかし,個別具体的な答案を前にして,この一般論を振りかざすのは間違っている.ましてや「本質の理解」や「出題者からのメッセージの受信」ができれば,問題を解くのは易しいなどというのはありえない誤解だ.