─信州大:その2─
1998年信州大学入試問題
を
より大きい自然数とするとき,
をみたす整数解
は存在しない」というのはフェルマーの最終定理として有名である.しかし,多くの数学者の努力にもかかわらず,一般に証明されていなかった.ところが1995年この定理の証明がワイルスの100ページを超える大論文と,テイラーとの共著論文により与えられた.当然,
を満たす整数解
は存在しない.
さて,ここではフェルマーの定理を知らないものとして,次を証明せよ.
を0でない整数とし,もしも等式
が成立しているならば,
のうち少なくとも一つは
の倍数である.
の続きである。解答例は既に紹介したので、今回はほぼ完全に余談である。
この問題に対して、次のようなコメントをつけた書物がある。
問題文の前半で「
を2より大きい自然数とするとき,
をみたす整数解
は存在しない」と言っているにも関わらず,後半では「あるものとして」解かせているのがおかしい.「ない」ことの証明になるのならばともかく,本問の設定は不自然である.
このコメントは、丹羽健夫という人の書いた「悪問だらけの大学入試─河合塾から見えること─」(集英社新書:2000年)に登場する。この書物の中には、各科目の悪問例が紹介されており、それらは「中等教育の現場サイドから見て明々白々の悪問」なのだそうだ。あるいは「客観的悪問」という表現もしばしば登場する。
私はこの書物にある丹羽の分析には大いに異論がある。それは後半で述べる。しかし、この分析に「客観性」がないことだけは、次の事例を引けばこと足りる。この信州大学の問題は、安田亨の「入試数学伝説の良問100」(講談社ブルーバックス:2003年)の問題12に採録されているからである。
安田のこの書物は、「1971〜2002年までの大学入試問題から、真に演習に値する良問を集めた」とあるのだから、冒頭の信州大学の問題も「真に演習するに値する良問」なのだということになる。もちろん、私は安田の書物が、この約30年の大学入試問題の中でベスト100な問題を集めているかどうかについては、確定的な事は何もいえない。また、安田の様々な個人的見解や数学の問題の解答例の書き方についても大いに異論のある箇所が沢山ある。しかし、この信州大学の問題が、丹羽の言う「客観的悪問」とは言い切れないことは明々白々だと思うのだ。
閑話休題。
さて、丹羽の書物にあるコメントについて考えてみる。信州大学の問題は
P:「を0でない整数とし,等式
が成立している」
Q:「のうち,すくなくともひとつは3の倍数である」
という2つの命題を考え、「PならばQ」が成り立つか否かを問うている。
もちろん、Pという命題は偽なのだから、純粋に命題論理的に言えば、PならばQという命題はQの真偽に関わらず真である。もし丹羽の書物の言うところの「不自然」な「設定」がこのことを指すと善意に解釈するのなら、ひとまず丹羽のコメントを理解することはできる(かもしれない)。しかし、そこで後半最初の部分の注釈「フェルマーの定理を知らないものとして」が効いてくる。
確かに、Pが偽ならばQの真偽に関わらず「PならばQ」という命題は正しい。しかし、いまはPという命題の真偽は知らないことにせよといっているのである。安田の書物の別の部分を引用しよう。
命題「A⇒B」とは、「Aが実現しかつBになる」ということではない。「Aになるかならないか、そんなことは知らないが、もし万一Aになるということを認めるならばBだ」という形式の命題である。これは、Aになるかどうかが簡単には判明しない難問を追求する場合に必要な形式として認められてきたものだ。
上で言うPという命題の真偽は難しい。結論は偽だが、今はそれを知らないものとして考える、つまりPの真偽は問わないというわけだ。このとき、Pという命題が成り立つと仮定した上で、正しい数学的論理を積み重ねていくことでどのような結論が得られるかを考えなさいというのである。その1つの結論としてQを導きなさいという設問なのだ。
というわけで、私は、「Pが偽なのだからQの真偽に関わらず、P⇒Qは正しい」とする議論が出題者の意図に沿っていないと結論するしかない。丹羽の書物のいう設定の不自然さもないと結論せざるを得ないのである。丹羽の書物にあるコメントは、私には埒もない難癖であると思われてならない。
そもそも、このコメントを書いた人(おそらく丹羽ではない別の塾講師であろうと思われるが)は、「ない」ものを「あるものとして」証明させるその形式自体に不自然さを感じたのだろう。命題論理とかそういう難しいことを考えてコメントしたのではなくて、「ない」ものを「ある」と仮定することに不自然さを感じたのだろう。
しかし、入試問題では、背理法という証明方法を良く使う。「○○が存在しないことを示せ」というとき、背理法で証明を考えるなら、「もし存在すると仮定すると」と始めるわけだ。命題Rが正しいか否かがわからないとき、Rが成り立たないと仮定して、それ以後は正しい数学的論理を積み上げていくという証明方法は、まさに数学における必須の方法なのであって、不自然なものでは全くない。
丹羽の書物に書かれているコメントは、こうした意味で全く当を得ていないといわざるを得ない。